草壁皇子とは、天武天皇と持統天皇の息子です。
異母兄弟の大津皇子とは何かと比べられていました。
影が薄いとか親の七光りだとか内気だとかいろいろ言われながら
689年に28歳という若さで病死しました。
大津皇子が謀反を企てたとして処刑された、3年後の死でした。
一見10Mクラスの円墳に見えますが、
実は60M以上の八角墳である可能性が高いことがわかりました。
(クリックで↑拡大画像へ)
ではどうしてここが草壁皇子の御墓だと言われているかというと、
当時、草壁皇子の宮であった「嶋宮」の舎人が
皇子の死を悼んで詠んだ歌
「朝日照る 佐田の岡辺に群れ居つつ わが泣く涙やむ時もなし」
が、だいたいこの場所が当たるだろうと考えられているからです。
ちなみに「嶋宮」は最近「蘇我馬子邸宅」として
脚光を浴びている「島庄遺跡」の重複施設。
(2005年9月現在の脚光)
今で言えば「田園調布」?(←浅い知識…
現在、草壁皇子御陵として「岡宮天皇檀弓陵」が奉られているけど
当時の記録からもそっちはちょっとずれてるみたい。
(だいたいあそこは古墳なのか?)
写真の右側の建物には
発掘当時の石室の風景が油絵で残されています。
実際来て見たら、有名ときけどタダの盛り土に雑木林。
この絵がなければ軽く暴れていたかんじ。
ところでこの「束明神」の「束」は
どうやら草壁皇子の歌から来ています。
「大名児を彼方野辺に苅る草の束のあひだも吾忘れめや」
石川女郎という女性に贈った求愛の歌。
万葉集の恋愛の歌が古墳の名前に!
…う、美しい…(ノ∀`)
と、言いたいところだけど、
実はオレ…
この歌でフラれたんだよね…
8(=_=)8(←注・草壁らしき人)
(ノ∀`) うわ、ゴメン。
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